ストーリーテリングについて語るブログ

ペルー・マチュピチュ旅行(その1)

夏休みに行ったペルー旅行のことを書きます。

突然やってきたタイムリミット

「ああ、もうタイムリミットか」

ニューヨーク駐在が4年を超えた頃、帰任の話が舞い込んできました。そのひと言が、思わず口をついて出ました。もともと私たちの職場は3年を超えたらいつでも帰任の可能性がありました。なので、いつ帰ってもおかしくなかったのですが、やはり帰任が決まると、一抹の寂しさはあります。

去年、夫が先に帰国し、子ども達も学校の寮に入ってから始まった私のマンハッタン暮らし。週末や長期休暇には子ども達が泊まりに来ることもありましたが、基本的には気ままな一人暮らしでした。それまでの3年間はニューヨーク郊外から1時間かけて電車でマンハッタンに通っていました。そこから変わって「毎日がマンハッタン」という生活は楽しくワクワクしたものでした。仕事帰りに歩いて帰る時は色々な道を通り、良さそうなお店があればネットでチェックして後日行ってみたり、とそれまでは点と点でしかなかったスポットが住むことにより、線となって繋がり、4年目にして初めて「ニューヨークに住んでいる」と実感できる日々でした。

骨折からの復活、そして自由な日々

色々と楽しんでいた矢先の11月のある日、思いがけない自宅での骨折。しばらくは不自由な生活を余儀なくされましたが、多くの人の助けに支えられ、2月頃には無事に外出できるようになりました。その後は、エンタメを楽しんだり、散歩をしたり、友達と会ったりと、気ままで自由な日々を謳歌していました。

いつか日本に戻る日が来るとわかっていたからこそ、「期間限定」の楽しみとして大切に味わっていました。1年以上もこういう時間を持てたことは、今思えばとてもラッキーだったと思います。

「マチュピチュ」へ行ってみよう!

残り2ヶ月半となった頃、ふと夏休みの旅行に行こうと思い立ちました。でも、どこに?

これまで長い休みといえば、家族と一緒にどこかへ旅行に行くのが習わしでした。家族の帰任があった去年は、そんな時間も持てずに終わってしまいました。そこで今年は、これまで足を踏み入れたことがない南米大陸に行くことにしました。目指すはペルー、ハイライトはマチュピチュの世界遺産の山々。

日本から南米へは飛行機を乗り継いで24時間以上かかります。ニューヨークの14時間ですら拷問なのに、その長旅に耐える気力と体力がなくなりつつある今、地の利を生かさなければと思いました。

何とか取れたチケット

1ヵ月前に慌てて旅行会社に連絡し、何とかマチュピチュ行きのチケットを手に入れました。マチュピチュは入場人数が制限されており、約10日間の滞在予定の中で、旅の後半にやっと半日分だけマチュピチュの山に入り遺跡を回るツアーを確保することができました。

私はマチュピチュはおろか、他の観光地もなじみがなく、初めて行くところばかり。何とか旅行会社にプランを組んでもらい、旅程がようやく決まったのは渡航2週間前のことでした。

リマには幸い会社の同期がいました。事前に服装や高山病対策の相談もできたし、現地では市内観光や食事に付き合ってくれて、楽しい旅の始まりとなりました。スペイン人入植の色が濃く残るリマに対し、「これから行くプーノやクスコはインカ時代の都市だから、全然感じが違うよ」と聞いていましたが、実際その通りでした。

何もない空港、親切なドライバーさん

リマで2泊した後は、いよいよ高地への出発です。リマから港町のプーノへ飛行機で向かいます。フリアカという街の空港に降り立った途端、「ああ、ここはこんなに田舎なんだな」と驚くくらい何もありませんでした。そこからプーノまでは車で1時間、旅行会社からは「ドライバーはスペイン語しか話せません」と聞いていましたが、この方は色々考えたりスマホで調べたりしながら、精一杯英語でもてなしてくれました。

まだ30代半ばくらいの若い方でしたが、奥さんもガイドをしており英語が上手で、お子さんにも英語を学ばせて、将来世界に出て欲しいと目をキラキラさせて語ってくれました。外の景色は日本の昭和40~50年代くらいの感じに見えました。畑と空き地しかない広大な土地、うろうろする野良犬、そして、街に入ると2人乗りの小さなタクシーが見えてきました。

高山病との初対面

ホテルに着き、ドライバーさんと別れました。ドライバーさんからは、高山病対策として「ムニャ茶(ペルーのミントに似た味のハーブティー)」を飲むと良いと聞いていました。同様に有名なコカ茶用のコカの葉っぱも置いてありましたが、フロントの人にムニャ茶をリクエストすると、ティーパックを用意してくれました。ペルーの観光地にはこのようにお湯とハーブティーを完備しているところが多く、自由に飲むことができます。

私は空港に着いた直後から3000メートル後半の高地にいる実感が湧き、息が上がる感じがしました。夕食のために外に出ましたが、たいして食欲がありません。高山病対策には腹8分目(私の同期は高地では腹2分目にしているとのこと)推奨とのことで、スープ1杯だけ頼んで飲みました。翌日もスープを頼み、テイクアウトにしたのですが、結局飲まずに寝てしまい、プーノでの最初の2日間は殆ど食欲がわきませんでした。

チチカカ湖で

翌日はチチカカ湖を船で周遊するツアーでした。私は恥ずかしながら出発前はバタバタでツアーの概要もよく把握してもらず、船で回ることも把握していませんでしたが、湖なのだから当たり前ですね。総勢20名くらいの参加者のうち、私以外は全員ヨーロッパの人でした。国籍はイタリア、ドイツ、スペインなど。

私は体調が万全ではありませんでしたが、船に乗り込み、ウロス族というインカ帝国よりも前から存在する先住民族の人たちが湖上にトトラという葦を編んで作って生活する地域などを訪れました。ここでは彼らは家族単位で島を作り、自給自足で漁業をして暮らしていました。その他のものは物々交換をして野菜などを手に入れるそうです。決して便利とは言えない、でも幸せそうな彼らの姿を見ていると、豊かさとはなにか、ということを考えさせられました。

何でも「YES」?

その後は約1.5時間のハイキングがありましたが、まだ高地に入って十数時間の体には少しの傾斜もきつく感じ、私はその間船で休ませてもらうことにしました。

昼食の時やその後の船の中では参加者の人と会話をする機会に恵まれました。アジア系かつ一人で参加しているのは私だけだったので、どこから来たのか、どこに住んでいるのか、なぜ一人で参加しているのか、など色々興味深く聞かれました。

中には日本に仕事で行ったことがある人もいて、その人が言っていた話が心に残りました。

「日本は素晴らしい国で日本人はとても親切だったけれど、一つだけ気になったことがある。何でも『YES, YES』と言われ、安心して国に帰ったら、後で『やっぱり会社の方針でできない』と言われた。そんなことが何度も続き、私は疑心暗鬼になった。」

彼の話を聞いて、日本人はだいぶ英語も話せる人が増えたし、外国人とのコミュニケーションも以前より取れるようになったけれど、こういうところは変わっていないなぁ、と少し歯がゆい気持ちにもなりました。つい、「相手に対して良い印象を持たれたい」、「『わからない』と言っては失礼だ」、と思ってしまうのが我々の性なのでしょうか?

ヨーロッパ流バカンスに思うこと

その他、船で正面に座っていたイタリア人の若いカップルの女性は、「イタリアでは夏休みで会社が2週間休みになることはザラ。私の会社は3週間休みになったからここに来た」と言います。フランスにいた頃、現地のバカンスシーズンってこんな感じだったなぁ、と思い出しました。彼女は近いうちに日本に来たいとも話していました。目をキラキラさせながら、レストランを経営するご主人と色々なところを旅しているようです。

30前後の彼女を見て、自分もそのくらいの時にもっと自由に世界を旅行していたら人生が変わっていただろうか、などと考えました。一般的に会社員の日本人のバケーションの平均は私のように、せいぜい1週間~10日くらいですが、ヨーロッパの人は最低2週間、長い人は3~4週間旅をしています。会社員であってもです。

フランスに駐在している時、毎夏バカンスで3週間仕事が分断するフランス人と仕事をしていました。最初は「そんなに!」と驚きましたが、結局8月の終わりに戻って来る彼らはきちんと仕事の帳尻を合わせてくるのです。こんなに長期で休んでも仕事が回るのですから、日本人にも取れないはずはないし、遠いところにも行けないはずはないんだよなぁ、と感じたことを思い出しました。

日本の組織にいたら難しいし、勇気がいることだけど、もしも、私が若い時から毎年2週間夏休みを取っていたら、もっともっと遠くに旅をしていたら、何か世界の見え方が違っていたのでしょうか?今となっては「たら」「れば」になってしまいますが、そんなことを考えていました。

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この記事を書いた人

米・ニューヨーク在住。ストーリーを使った「ストーリートーキングⓇ講座」認定講師。スピーチコミュニティ「伝わる!スピーチ道場」主宰。
こちらのブログでは「ストーリーテリング」、「スピーチ」を中心に、書くことで人の強みを発掘し、話すことで相手の心を掴む話し方、をテーマに書いています。

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